私は、母を尊敬している。
感謝もしている。
料理が嫌いだと言いながらも、毎日手作りの料理を出してくれた母。
小学生の頃は家に帰ると必ずスイートポテトやキャラメルなどのいい匂いがして、そ
れが今でも私を幸せな気分にしてくれる。
どんな小さなこと一つ取っても私に愛情をたくさん注いでくれた。
だから大好き
でも、私が会社を辞めたくらいだろうか。
2015年。あの頃から関係はおかしくなってきた。
あれから5年。
長い長い冷戦のような確執があった。
酸素の薄いところで必死に呼吸しているかのような
何とも言えない苦しさがあった。
母には母の価値観があり、今までは私も母の言うように生きていた。
いい高校に入り、いい大学に入り、いい会社に入り、いい人と結婚して、、、、、
そんな青写真を母は描いていた。
そして、この私はと言うと、、、、
そのレールに疑問を持ち始めた。
表面的には楽しかったり一時的に満たされた生活もおくっていた。
行きたいとこにもいくことができた。限られていはいたがそれなりに自由だと思っていた。
でも、どこかで息詰まっていたのも事実。
そして誰に相談することもなく、葛藤の末、私は、会社を辞めることを決断した。
その後1年間で地球2周分の移動をして様々な冒険、体験で
私自身がわかってきたと言うか、自分自身にフォーカスすることや
たくさんの気づきを得ることができた。
途中で、不思議と涙が出てくるくらい『自由』を感じて細胞が、魂が喜んでいたのを感じた。in Spain.
ほんの一時期の感情だったけれど、今まで感じたことのない
今、ここに存在していることへの喜びだった。ーやっぱり辞めてよかった。
不安もなく、後悔もなく、意外と生きられている事に驚きと喜びを感じていたのだけれど、
私は、私の信じた道を歩けば歩くほど、母との確執は耐えられないものとなっていた。
親戚の集まりには呼ばれず、親戚には私の行方を隠し、
実家にいても電話に出ないでね。と念を押され。
でも、うっかりその電話に出ると、親戚からで
『久しぶりに家に戻っているのね!ちゃんと顔だしてあげて偉いわね〜』
と私がここに住んでいることを伝えていないと言うことがわかる会話をされた。
母にとっては恥ずかしい存在だったのだと思う。
母がひいたレールから脱線しているから。。。。。
私は、母を責めていた。
私は、今までこんな道を歩きたかったんじゃない!何でこんな道を歩かせたの!って。
そう思っていたから、冷戦が長引いていたのかもしれない。
でも、全ては私の選択だった。
母に言われた通りに生きてきたことも、それを頼りに私が選択した事。
なのに、母のせいにしていた。
そして私自身が自分のことをどこかで責めていたの。
実際は、この後何が起こって、私はどうなってしまうのか不安だったし、
これで良かったのかもわからなくて自信がなかった。
だから、こんなに不安にさせていたのは母の子育てが原因だって思っていた。
母の育て方が悪かった、間違っていたと。
だから、自分自身に自信も持てず、自分を信じてあげられなかったし、
胸を張って大丈夫とも言えなかった。
一番大好きな人からの応援がないとこんなにも不安になるんだって。
不安になりすぎて攻撃的になってしまう。
その後、何をするにも猛反対。
反抗期だとか最初は笑っていた時もあったのだけれど、嘘つき呼ばわりされ、
それはもうひどかった。
海外にいく時も私はこっそり夜中にパッキングをして夜逃げするかのように出て行こうとしたけれど、夜中に何かを察知して起きてくるんだよね。
そしてまた喧嘩。
そんなことをして何になるの?
その答えは今は持ち合わせていない。
だから、答えられない歯がゆさも相まって不安になっていた。
でも、私は行きたかった。
だから逃げるようにして家を出て、
認められてないのだと愛を感じれないまま新しいことにチャレンジしていく
でも、ふとした時に母のことを思い出したり、話題に出たりしてその度に、
悲しくなっていた。それでも強がって見せていた時もあった。
家族の話になると、常に母との確執の話になり、怒りや悲しみの感情が私を支配した。
目の前も見えないくらい泣いたりもしていた。
何人の人にこの話を聞いてもらっていたことか。。。
話しても話しても解決しない。気持ちは楽にならない。
そう、自分のことを愛してくれていたはずの母親はもういない。
今は私に怒りすら覚えている。もう愛されていない。。。。。
過剰な愛。間違った愛。
本当はとても愛しているのに。
でも、私は気づいたんだ。アフリカ人の彼女によって。
2019年7月私は彼女と家族について母親との関係について話をして、
私は何を望んでいて、彼女は何を望んでいるのか?と言うことを。
私はこの関係を続けたくないし、母は私の幸せを望んでいるはずだと。
全ては私の選択で、私は私を幸せにしようとして選択しただけ。
ただそれだけだ。今の私は何になるかは分からないけれど、
それでも私はこの選択ができて幸せだし、
これまで私を一生懸命に育ててくれたことにすごく感謝していることも。
たとえ、母が望む道と違ったとしても私は母ではないし、私は私だからと。
そして、分かち合えたら安心。安堵するだろうとイメージして、最初はぎこちなかったけれど、アフォメーションと言うやつをやってみていた。
彼女のアドバイス通り、元気だよと伝えなさい。と電話させられて、
でも、やっぱり怒られて笑 しょげたけれど、元気でやっている事を伝えられてから
一歩前進!と前向きにトライして。
それから約半年ぶりに家に帰って、でもやっぱり何だかぎこちなくって
1週間実家で過ごし、そのままインドへ旅立った。
その時も呆れていた感じで。
本当は仲良くなりたかったけれど、できないならもう帰って来たくない!とも思っていて複雑だったけれど、いつか分かってくれる。そう信じた。
私もママの願いは分かったからって。
それはできるできないは別問題で、ママが私に対する気持ちが分かったよ。
そんな事を思いながら、
ただ一言、『ママの望む子になれなくてごめんね』
そう言って私はインドへと旅立った。
2019年11月インドで、、、、
毎日ハードワークのため、夢すら見ずに早朝に目覚める。
なのに、ある日、ママが夢に現れた。
そして、
『いろんな人がいるものね。いろんな考えがあるものね』
と私に囁いていた。
ごめんとも謝るのでもなく、ただ理解してくれたと言う感じ。
受け入れてくれたと言う安心感があった。
目覚めたときはリアルなんだか夢なんだか区別が難しく、
とにかく夢なのに、生暖かいと言う温度を感じていたの。
今までに見たことのないような立体的な夢。
ほぼ現実だろうと確信した夢。
あ、これでもう大丈夫だ。って思った。
寝ぼけていたのかもしれないけれど、そうじゃないと確信している。
時空を超えて想いが伝わったんだ。
インドと日本の距離は約6000km
でも距離なんて関係ない。
想いはどこにいても伝わる。
しかもとてもリアルに。
シンパシー
テレパシー
でも、まだ
母の質問には答えられない。
そんなことして何になるの?
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